日本の救い、神様の計画

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どうしてキリストなの? パート1

誰でもクリスチャンを見て、聞きたくなる質問ってあると思う。

「どうしてキリストじゃないと救われないの!?」

これってもしかして一番多いのでは?
実際、本当にキリストじゃなければいけないのだろうか!?
ブッダは?ヒンズーは?イスラムは?バハイは?創価学会は!?

この問いかけに対して、なるべくわかりやすく展開していきたいから
3回にわけてブログします。
初めに、これはイエスキリストのことをもっと知りたい!という人が読んでくれるといいかも。
もし、まだ私よく宗教ってよくわからないのって人がいたら、是非読んでください:)


まず、この一回目は「救い」について。

 

「救われる」からには「何か」から救われる、対象があるはず。
この「何か」とぶつかって、苦しみ、もがいているのが僕たちヒトです。
それぞれの宗教はこの「何か」と「救い」を定義してそれぞれの宗教観なり、世界観をつくりあげています。

例えば、仏教はこの「何か」を「煩悩」って言ったりする。
そして「救い」を「悟り」とか「無の境地」というふうに定義する。
例えば、イスラムだったら、「何か」は「不信仰(罪)」、
「救い」を「 アラーにたいする自分たちの忠誠」と捉えている。

クリスチャンはこの「何か」を「罪」、「救い」を「キリストを信じる信仰」と捉えるのですね。

え?!イスラムに似てるじゃん、「アラー」か「キリスト」かの違いやろ?!
と思った皆さん、するどいw

ところが、実はだいぶん違うのです。
どこが違うのか。


それは「救い」の「方向性」。


方向性?
そう、よくバンドメンバーが、音楽の「方向性」が違うということで、解散します。
数ある宗教の中で、キリストを信じる信仰だけ、「方向性」が違うのです。
イエスキリストだけ他の宗教と「方向性」が違う。まさに、真逆なのです。

どういうことか?
僕らは頑張って、何かをして、「救われる」わけではないということなんです。
階段を一生懸命上っていって神様に出会う、のではないということ。
さらに言ってしまうと、僕らクリスチャンが頑張ってキリストを信じる、わけでもないのです。


じゃあどういうこと?
聖なる偉大な“神様の“方から”、僕らに向かって“下って”きたということです。


よく考えてみると、「救い」という言葉は、とても一方的で、向こう側の行為がほぼ100%。
「救われる」と言うと、ぐったりしている人が助けられるようです。
そうです、力なく、ぐったりと横たわっているイメージです。
本当に助けが必要な人は、横たわっていて動きません。いや、動けないのです。
その場所に駆けつけ、救助し、篤い手当をする人がいるからこそ、「救われる」と言うのではないでしょうか?
言うなれば、全ての宗教は横たわって動けずにいる人に向かって、「自分で立って歩いてきなさい、こっちにくれば救われるよ。」と言うようなものなのです。


でもイエスキリストだけは違う。人と人との関係を癒し、本物の愛を示すために、
彼のほうから僕ら一人一人に歩み寄ってくれる。


さて、今回のブログでは「救い」について少しだけ触れました。
「救い」は僕らのもとに来ること。
僕らが神に頑張って向かって行くのではなく、神様の方から僕らに来るということです。

これを福音、Gospel(良い知らせ)、と言います。

さて「救われる」からには、「何か」から救われる必要がありますよね。
次回のブログではこの「何か」について話していきたいと思います!


ハレルヤ!!

うだい


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