日本の救い、神様の計画

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どうしてキリストなの?パート3「エデンの園」

どうしてキリストなの?、シリーズ3回目です。

(過去のブログはこちら→パート1パート2。)

「救い」は、「上から下」への方向性。

「罪」は、自分中心=神様中心ではないこと、でした。




少し整理すると、




救いは、神様が僕らの方にきてくれて救ってくださること。

上から下への「方向性」であって、僕らが「下から上」に行くわけではない、ということ。

自分で這い上がれるならば、「救い」は必要ないわけです。

罪は、 すべてを「条件付き」の関係に引き下げてしまった。

自分中心の見方で関係を見て判断するために、僕らは、他人も、この世界も、自分自身でさえも、ありのままに愛することができなくなった。

妥協はできても本当の意味で愛せない…




はぃ、今回は「エデンの園」という話をします。


この話を通して、じゃあ罪ってどこからきたのか?掘り下げていきたいと思います。




この話は、聖書の初めの書、「創世記」にあります。
聖書を開くと一番初めの書が創世記。神様が世界を創造した記録、だから創世記。
もともとは、単に「始まり」という意味。
聖書は章と節で区切られていて、エデンの園は3章にあたります。
聖書を読むとき、背景をつかんで読むとわかりやすい。


エデンの園までの場面背景:

ポイントは、

1.   神様は自分の言葉(御言葉)によって世界を創り、祝福した。

2.   神様は自分で創られた世界と生き物すべてを、人に託し管理を任せた。(人に目的を与えた)

3.   神様は人が食べる木の実を用意し、食べてはいけない1本の木を指定した。(人が生きるための境界線を示した)




クリスチャンは創世記に書かれている創造論をすべて本気で信じてるの??という問いに対して。


答えは、「はい!信じています!!」

誤解がないように言うと、史実として真実であるかどうかは、証明することは出来ないので何とも言えませんが、創造論が全ての人に当てはまる実用的な真理をついていることは、間違いないと思います。後者のほうが、クリスチャンが創造論を信じる根拠としては大きいのではないでしょうか。どういうことか??後のブログシリーズを期待してください:)



さて、3章では最初の人であるアダム、その妻エバ(女)、そして蛇の3者が登場します。


蛇はただの蛇ではなく、人に嘘をついて、人を神様から離そうとする悪役。それが象徴として蛇と書かれています。(聖書全体を通して言えば、蛇はよくも悪くもなく中立)

蛇は最初に女に向かって、食べてはいけない木の実を食べるようにそそのかしました。

一つの質問をぶつけたのです。



蛇:「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか?」[1]



この質問、実は2つの点でネジれているので、エバを混乱させるのに非常に有効



まずは、「神は本当に言われたのか?」という問いかけを通して、「あれ、本当にそう言ったっけな?」と思いめぐらせる働き。

そして、「園のどんな木からも食べてはならない」という間違った情報を通して、エバが「いいえ、違いますよ。」以上の答えが返ってくるようにしむけている。(会話を続けるテクニック)



蛇のヒネリの聞いた質問に対して、



エバ:「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなた方が死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」[2]



実は、エバは神様のこの言葉を直接は聞いていません。アダムからの又聞きでした

実際に神様がアダムに向けて言った言葉は、



神様:「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」[3]


でした。よく読むとエバの返答には、「善悪の知識の木」という名称が抜けています。





それがなんだってのよ??





蛇にとっては、エバが善悪の知識の実について何も知らないというのは、騙すのに好都合だったのです。すかさず、質問から定義に変えて、こう言うのです。



蛇:「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べる時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」


蛇はエバがいかにも、その木に手をつけるように、まんまとそそのかしました。

実に真実味あるように話しましたが、ほぼ嘘です。

この後、エバはおもむろに善悪の知識の木の実を見つめ、とって食べちゃいました。

この間ずっとアダムは黙っていました。むしろエバと一緒に食べちゃいました。



あちゃま〜…そしてどうなったか?



「ふたりの目は開かれ…」[4]



二人は自分たちが裸であることを知り、恥ずかしくなって、いちじくの葉で腰を覆いました。

そして神様から隠れたのです。

「恥ずかしくなって」、「隠れた」、う〜ん、これからとっても大事なキーワード 。


この次のブログで、この後、神様とアダムとエバの会話がどうなっていくのかを見ていきたいと思います。ここでのまとめは、



1.最初から、神様と人を離そうとする蛇のような悪者がいた、ということ。

2.悪者は非常に賢く、嘘つき。

3.人は自分で善悪を判断するようなった。(神様中心→自分中心、価値観の逆転)


「エデンの園」、俺となんの関係があんねん?!と思ってくれる人が、ここまで読んでくれたら、もう本望です:)でも次のブログも続けて読んでください!自由にコメント、感想、質問、嘆きなどなど書いてください。



長いのに読んでくださってありがとうございます。



うだい


[1] 創世記3:1 (新改訳)

[2] 3:2−3

[3] 2:16-17

[4] 4:7


どうしてキリストなの?パート2

シリーズ2回目です!

どうしてキリストなの?!
前回は、「救い」についてでした。(1はこちら)
バンドが音楽の「方向性」が違うと言って解散するように、
キリストだけは他のあらゆる宗教と真逆の「方向性」。

「救い」は神様の方から、起き上がれない僕らのために 一方的に“下りて”きて助け出してくれるということ。

今回は、何から救われるのか?その対象について話していきたいと思います。

それは「罪」です。(あっさり)

「罪」から救われる。

このブログを書く前にネット上で「罪」のことがわかりやすく書かれていないかなぁと、探したのですが、あまりありませんでした。聖書的には正しくても、理解するのが難しい!!もし、聖書の知識と背景がなかったら、心に響きにくい。

ここではアプローチを変えて、わかりやすいように2つの点から書きます。

罪とは、価値観を逆転させてしまうもの。

そして、関係性を破壊してしまうものです。


1.価値観の逆転

本来、人は神様と完全な関係を持っているはずでした。

自分をささげることを惜しまず、 愛し合い、自由と喜びに満ちた関係を持っていたはずでした。でも、罪が人に、そしてこの世界に入ってきたとき、(詳しくは、エデンの園、というタイトルで後ほど書きます)それまで神様中心だった価値観が、自分中心の価値観に逆転してしまったのです!!!

神様中心から自分中心?どういうことか?

価値観が神様中心から、自分中心になってしまったために、
神様の愛や周りの人の愛を、「自分の力」で勝ち取ろうとするようになったのです。
自分が何か愛されるにふさわしいことをした。だから愛されるにふさわしい、というように。

ですから、すべては自分の力、努力、成績、功績になる。
他の宗教がどうして、上にのぼるかのようにして救いを得るかは、これで納得がいきます。
神様の愛、賞賛なり悟りの境地などを、自分の力で勝ち取ろうとするからです。
罪は、私たちを神様中心から自分中心への価値観へと、逆転させてしまったのです。

じゃあ今この世は、価値観が逆転しているの??

そうなのです!

2.関係を破壊してしまうもの

罪は、一つ一つの行いを指す場合もありますが、さらに言えば暗くてドロっとした、自分たちの内に潜む根源的な問題です。価値観の逆転が起こったので、僕たちは互いに愛を勝ち取らなければいけない存在になってしまった。

何が起こるかというと、関係性の断絶です。

人と人の、そして人と神様の関係には信頼が不可欠。
しかしその信頼も、信頼するに足りる証拠がなければ、信頼できない。
だから、その証拠が足りない場合もしくは、失敗があったり、何か欠けている場合は
信頼するに値しないのです。

企業が顧客を得るには、実績がなければいけません。
実績
が信頼するにふさわしい証拠だからです。
良い子が両親の愛と賞賛を得るには、良い成績をとらなければいけない。
成績が愛を得るにふさわしい証拠だからです。


つまり、罪は全ての関係性を、「条件つきの関係」に閉じ込めてしまったことになる。

条件付き?

すなわち、人はありのままに愛され、愛することができなくなった、ということです。


これは、聖書の話をせずに紐とくこは難しい!
そうですね、聖書の話をしましょう。

次のブログでは、エデンの園、というタイトルで、一体何が起こったのかを見ていきたいと思います!ちょっと飛ばし過ぎ?!よかったらコメントじゃんじゃんください!質問、疑問、励まし、叱責ウェルカムです:)

ハレルヤ!!!

うだい


P.S. 僕の教会からチームHope Japnが仙台に4月8日から2週間働きにいきます。

詳しくは、http://hopejapan.posterous.com/ 、彼らは自費でいきます!ファンドレイズイベントが4月2日土曜日に行われ、すべての寄付金は被災された方のために使われます。どうぞお祈りください。

2歴代誌7章14節、「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔をしたい求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」

今、日本のクリスチャンが心を一つにして祈っています。僕らが主に悔い改めて立ち返る時に、必ず罪を赦して、大地を癒してくださる。主は動いています、リバイバルがきます、祈りましょう!!


どうしてキリストなの? パート1

誰でもクリスチャンを見て、聞きたくなる質問ってあると思う。

「どうしてキリストじゃないと救われないの!?」

これってもしかして一番多いのでは?
実際、本当にキリストじゃなければいけないのだろうか!?
ブッダは?ヒンズーは?イスラムは?バハイは?創価学会は!?

この問いかけに対して、なるべくわかりやすく展開していきたいから
3回にわけてブログします。
初めに、これはイエスキリストのことをもっと知りたい!という人が読んでくれるといいかも。
もし、まだ私よく宗教ってよくわからないのって人がいたら、是非読んでください:)


まず、この一回目は「救い」について。

 

「救われる」からには「何か」から救われる、対象があるはず。
この「何か」とぶつかって、苦しみ、もがいているのが僕たちヒトです。
それぞれの宗教はこの「何か」と「救い」を定義してそれぞれの宗教観なり、世界観をつくりあげています。

例えば、仏教はこの「何か」を「煩悩」って言ったりする。
そして「救い」を「悟り」とか「無の境地」というふうに定義する。
例えば、イスラムだったら、「何か」は「不信仰(罪)」、
「救い」を「 アラーにたいする自分たちの忠誠」と捉えている。

クリスチャンはこの「何か」を「罪」、「救い」を「キリストを信じる信仰」と捉えるのですね。

え?!イスラムに似てるじゃん、「アラー」か「キリスト」かの違いやろ?!
と思った皆さん、するどいw

ところが、実はだいぶん違うのです。
どこが違うのか。


それは「救い」の「方向性」。


方向性?
そう、よくバンドメンバーが、音楽の「方向性」が違うということで、解散します。
数ある宗教の中で、キリストを信じる信仰だけ、「方向性」が違うのです。
イエスキリストだけ他の宗教と「方向性」が違う。まさに、真逆なのです。

どういうことか?
僕らは頑張って、何かをして、「救われる」わけではないということなんです。
階段を一生懸命上っていって神様に出会う、のではないということ。
さらに言ってしまうと、僕らクリスチャンが頑張ってキリストを信じる、わけでもないのです。


じゃあどういうこと?
聖なる偉大な“神様の“方から”、僕らに向かって“下って”きたということです。


よく考えてみると、「救い」という言葉は、とても一方的で、向こう側の行為がほぼ100%。
「救われる」と言うと、ぐったりしている人が助けられるようです。
そうです、力なく、ぐったりと横たわっているイメージです。
本当に助けが必要な人は、横たわっていて動きません。いや、動けないのです。
その場所に駆けつけ、救助し、篤い手当をする人がいるからこそ、「救われる」と言うのではないでしょうか?
言うなれば、全ての宗教は横たわって動けずにいる人に向かって、「自分で立って歩いてきなさい、こっちにくれば救われるよ。」と言うようなものなのです。


でもイエスキリストだけは違う。人と人との関係を癒し、本物の愛を示すために、
彼のほうから僕ら一人一人に歩み寄ってくれる。


さて、今回のブログでは「救い」について少しだけ触れました。
「救い」は僕らのもとに来ること。
僕らが神に頑張って向かって行くのではなく、神様の方から僕らに来るということです。

これを福音、Gospel(良い知らせ)、と言います。

さて「救われる」からには、「何か」から救われる必要がありますよね。
次回のブログではこの「何か」について話していきたいと思います!


ハレルヤ!!

うだい


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