どうしてキリストなの?パート6キリストは人!
パート6、イエスキリストは人!です。
いや、そんなの当たり前でしょ、歴史上実在した人物なんだから。って読むのをやめる前に、ちょっと待ってw
クリスチャンが信じてることで、わかるようでわからないことって凄〜く多い。
その最も代表的なのが、
イエスキリストは、神であり人である。
の表現。
神100%、人100%とかって表現したりする。
神100%、人100%?
マイケルジョーダンがバスケの神とか、エリッククラプトンやジョンメイアーがギターの神とか言われるのとは全然違います。普通、誰でも、「私が神です。」と言い出したら、この人頭変だわ、近づかないでおこう、ということになります。 でもイエスキリストに関して、クリスチャンが信じていることは、まさにこれなのです。神であり、人である。神100%、人100%。
どちらかではなく、両方。
でも、なんでキリストが救い主なの?
それは、
この世界の創造主、すべてを治めている大きな神様が、普通の一人の人として生きたから、
なのです。
ん〜??どういうことだ??
イエスキリストの誕生について聖書に書かれていることは (ちょっと堅いので、さらっと流してw)
1. イエスキリストはユダヤ人として生まれた
2. メシヤ(救い主)の預言が現実になることがユダヤ人のコミュニティでは待望されていた。
3. 当時の支配者(ローマ帝国)はこのユダヤ人の王の誕生を恐れた(殺そうとした)
4. イエスキリストは聖霊によってみごもった
この4番目に注目します。聖書にはイエスキリストは聖霊(神様)によって、マリアの胎にみごもったと書いてあります。
いわゆる、処女降誕と言われるものです。
つまり、男女の性行為なくして、みごもった。ということ。
…え、クリスチャンはみんな、処女降誕なんて信じてるのぉ?!んな馬鹿な!?
そう、そんなあり得ないことを信じているのです。
細かいところは話だすときりがないけれども、聖書にはみごもったマリアさんとその婚約者であるヨセフさんの心情が書かれています。マリアさんがみごもった時のヨセフさんの悩んだ様子は想像にかたくありません。誰だって、びっくりしますよ、婚約者が妊娠したら。婚約時代、紗奈が勝手に妊娠したら、僕だったらどうするかなぁ?って考えたことがありました。聖霊〜???ってなに〜?!嘘〜っ?!もう終わりだ〜ぁぁ!!!って、まずパニックになることは間違いないです。このストーリー、一度読んでみては??面白いですよ。
イエスキリストは、マリアから聖霊によって生まれた。
とはいえ、普通のユダヤ人の家族の、普通の長男。
大工をして、30歳くらいまで普通に生きています。
そして、その後、イエスは、ユダヤ人のコミュニティで堅く守られていた法律や聖書が、自分(救い主)について指し示していると教え始めた。そして神の国について解き明かし始めたのです。
実際に、自分の弟達に変な目で見られ、非難されるイエスキリスト。そりゃそうですよ、ごく普通のユダヤ人だったんだから。
救い主である神が普通の人となって生活した。
でも、どうしてそれが重要なのか?
それはこのブログシリーズの一番最初に話した、救いの方向性に関わってきます。(パート1)
僕らは、実は目が塞がっていてものごとを正しく見ることができなくなっている。人を傷つけ、自分を傷つけ、人も自分も愛してあげることができない。それ全ては罪が原因だと聖書は書いています。そこから一生懸命這い出ろ、抜け出せよ、頑張れ!!っていうのが宗教の教え。下から上への方向性。
でもイエスは違う。イエスキリストがもたらす救いはまさに逆、上から下への方向性。
彼を信じる人は、もうすでに罪が赦され、罪の支配が及ばなくなっている。(パート9で詳しくふれます)
もし普通の人である僕らが、キリストを信じ始めたらどうなるのだろうか?
もし普通に生きてきた僕らが、キリストが接したように人と接し始めたらどうなるだろうか?
普通に、世界が変わる。
救い主が人となってきたのは、僕らの罪を負うため。そして世界を救うため。
どうしたら、神様が自分達の罪を負うことができるのか?痛みを知ることができるのか?
どうしたら、神様が自分達を愛していることを示すことができるのか?
それは、僕らの目線に立ち、共に笑い、共に泣き、共に苦しみ、痛みを負うこと。
だから人となった。
神様は、色々なメッセージを送って歴史上に、神様こそが究極的な愛で救いの神様だよということを人に伝えてきました。 その最上級の表現方法がイエスキリストという人にあって、彼の十字架における死と復活によって、実現したのです。
次回は、イエスキリストは神!を見て、どうしてイエスキリストが救い主なのか、見ていきたいです〜。長くなりました〜。会話が広がれば、神の国が広がる!是非コメントのこしていってください:)読んでいただいて、ありがとうございます。
うだい
どうしてキリストなの?パート5ダイジェスト
どうしてキリストなの?パート5ダイジェスト
少しパート4から時間が空いてしまいました〜!!
前回までのダイジェストです。
救いは、自分の努力で達成することではなく、下から上に這い上がるよう神様に近づいていくことでもない。救いは、起き上がることのできなかった自分にむかって、上から下に神様が近づいて助けてくださること。(パート1)
罪は、自己中心。神様中心でないこと。(パート2)
そして、罪の始まりは、エデンの園の出来事をみればわかる。(パート3&4)
アダムとエバのストリーは今、現代においても繰り広げられている僕らのストーリー。
罪の結果は、死。関係性の断絶。価値観の逆転。
僕らが生きている世界、世界観は、もともと神様の愛を中心としていた。
その全てがひっくり返ってしまった。でも、神様はひっくり返ったままにはしません。
壮絶なる救いの計画を僕たちの人生を通して、今まさに繰り広げているからです。
過去のシリーズ、まだ読んでいなかったら是非読んでみてください。
このブログの目的は、少しでも多くの人に神様を伝えること。
もし、神様って何?キリストって誰?人生の意味は?真実は?
そんな疑問が溢れてくる人、どんどん読み進んでほしいと思います。
次回からイエスキリストについてです。
イエスキリストが救い主だということを、少しでも多くの人に届けたい。
どうしてキリストを信じてるの?ってクリスチャンの人に聞いてみたことありますか?
何かを信じるということは、個人的な体験から話をするのでとても主観的。
「ただ、なんとなく信じてます」っていう人も、どういう風に説明したらいいかわからない場合が多いけど、よくよく話を聞いてみたら「あ、なるほどぉ」とか「それ、わかる」と共感できることが多いと思います。今度、是非まわりにクリスチャンがいたら聞いてみてください!
イエスキリストは本当に生きていて、僕らを愛する真実の神様だから。
このブログシリーズでは、どちらかというと客観的な視点で、どうしてキリストが救い主なのか?について一緒に見ていきたいと思います。
これからのブログは、
パート6:イエスキリストは人!
パート7:イエスキリストは神!
パート8:キリストの教え
パート9:十字架の死
パート10:復活、今生きている神
コメントは勇気がいるけど、質問なり感想なり、ジャンジャン残してってください。会話が広がれば広がるほど神の国が広がる。批評批判もしてくだされば大変嬉しい限りです、ハレルヤ!
ではでは〜、
うだい
どうしてキリストなの?パート4「エデンの園」2
どうしてキリストなの?シリーズ4回目。
前回は、アダムとエバが蛇にそそのかされて、善悪の知識の実をとって食べた話をしました。(パート3)
前回のまとめは、
1. 最初から、神様と人を離そうとする蛇のような悪者がいた、ということ。
2.悪者は非常に賢く、嘘つき。
3.人は自分で善悪を判断(しなければいけなくなった。)するようなった。(神様中心→自分中心、価値観の逆転)
彼らの目が開け、裸であることに気づいて、いちじくの葉で体を覆った。
そして神様から隠れました。
このエデンの園のストーリーは、遠い過去にあったことではなくて、むしろ今起こっている僕らの身近な日常の姿ではないでしょうか?
おいたをしたアダムとエバに、神様はどう接するのか!?
創世記3章の後半です。
神様は園を歩きながら、「どこにいるのか?」とアダムとエバを呼びました。
…どこにいるのか…
??
神様って、すべてを治めていて(全治)、すべてを知ってるんでしょう(全知)?
なんでもできるんでしょう(全能)?
じゃあ、「どこにいるのか?」という問いかけは、おかしいのでは!?
人と人の関係、神様と人との関係を見る時に、これは非常に大切な質問だと思います。
友人がある時、ボソっとこんなことを言いました。
「完璧で完全な神様がいるとして、そんな神様にはおおよそ興味はないね。」
彼は人のもっているリアルな感情、どうしようもない欠陥、ドロドロとした暗闇の部分にすごく惹かれるそう。もし完璧な神様がいるとしたら、きっと欠陥だらけの人のことなどわからないだろう、というのが彼の持論。
たしかに。
完璧と聞くと、どこか近寄りがたい感じがしませんか?
完全と聞くと、なぜだか退屈な気がしませんか?
不完全な人。完璧な神様…..距離。
でも、そんな距離はもともとはなかった。
善悪の知識の実をとってから、 離れてしまった距離??
なにをもって、神様が「完璧で完全で全知全能」だと言えるのか。
とっても深い質問ですね。
「どこにいるのか?」[1]
ここで一番大切なことは、神様はアダムとエバを求めて、近づいて、呼んでいるということです。フィジカルな距離を縮めるだけではなくて、人の全存在を引き寄せているように。
本当の神様は、どこか遠くにいる近寄りにくい神様ではなくて、実は向こうから近づいてくる。どのような状況にあってもです。
さぁ、ここからの会話の流れ。
神様はアダムとエバに起こったことを知ります。
「お前が裸であると誰が告げたのか?」[2]
「とってはいけないと言った木の実から食べたのか?」
「何ということをしたのか」
さっきまで平和だったエデンの園に、天と地がひっくりかえるほどのひと騒動。
アダムは一緒にいたエバに責任をなすりつけます。(間接的に、エバを自分に与えた神様を責める)
エバは自分をそそのかした蛇に責任をなすりつけます。
もう責任逃れの大応酬。どこかの国の政治みたいです。
責任逃れというのは、
「自分は悪くない」、「過ちを認めたくない」 そして「謝りたくない」ということです。
このストーリーでは、一体だれが責任をとるのでしょうか?
あれだけ饒舌だった蛇も、ここでは一言も口にできません。
神様が間髪を入れずに呪ったからです。
そして、神様はエバとアダムに対して、それぞれにお叱りを。。。
なかでも、
「お前のゆえに、土は呪われる者となった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ…お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る。」[3]
これは大分痛い。
塵からつくられたから塵に返る。
つまり、永遠に生きるはずだったアダムとエバ、人に死がはいりこんだ。
このあとアダムとエバは皮の衣を着せられて、エデンの園を追放されます。
まとめると、
罪が引き起こすもの、、
1.価値観の逆転(神様中心→自分中心)
2.関係性の断絶。
言い換えるならば、
1.死(永遠に生きる存在であったのに)
2.自分の力を頼りにして死ぬまで生きていかなければいけなくなった。
このストーリーでは、だれがすべての責任をとるのでしょうか??
神様が待っていたのは、「ごめんなさい」の一言かもしれません。
白いキャンバスに、黒い絵の具をたらしたら、どんな小さい一滴だとしても、黒は黒。
僕らは皆それぞれ、そんな黒い絵の具をボタボタたらしているのではないでしょうか?
周りと比べて、自分は「まだきれい」と納得させようとする自分。
黒い汚れを誰かのせいにしてしまってる自分。
親のせい?
友達のせい?
社会のせい?
僕らの人生、一体誰が責任をとるのでしょうか??
次のブログ3回くらいで、イエスキリストは一体誰で何なのか?みていきたいと思います。
意見、感想、質問などなどLeave a commentのところに残して下さい☆
またね〜
うだい
どうしてキリストなの?パート3「エデンの園」
どうしてキリストなの?、シリーズ3回目です。
「救い」は、「上から下」への方向性。
「罪」は、自分中心=神様中心ではないこと、でした。
少し整理すると、
救いは、神様が僕らの方にきてくれて救ってくださること。
上から下への「方向性」であって、僕らが「下から上」に行くわけではない、ということ。
自分で這い上がれるならば、「救い」は必要ないわけです。
罪は、 すべてを「条件付き」の関係に引き下げてしまった。
自分中心の見方で関係を見て判断するために、僕らは、他人も、この世界も、自分自身でさえも、ありのままに愛することができなくなった。
妥協はできても本当の意味で愛せない…
はぃ、今回は「エデンの園」という話をします。
この話を通して、じゃあ罪ってどこからきたのか?掘り下げていきたいと思います。
この話は、聖書の初めの書、「創世記」にあります。
聖書を開くと一番初めの書が創世記。神様が世界を創造した記録、だから創世記。
もともとは、単に「始まり」という意味。
聖書は章と節で区切られていて、エデンの園は3章にあたります。
聖書を読むとき、背景をつかんで読むとわかりやすい。
エデンの園までの場面背景:
ポイントは、
1. 神様は自分の言葉(御言葉)によって世界を創り、祝福した。
2. 神様は自分で創られた世界と生き物すべてを、人に託し管理を任せた。(人に目的を与えた)
3. 神様は人が食べる木の実を用意し、食べてはいけない1本の木を指定した。(人が生きるための境界線を示した)
クリスチャンは創世記に書かれている創造論をすべて本気で信じてるの??という問いに対して。
答えは、「はい!信じています!!」
誤解がないように言うと、史実として真実であるかどうかは、証明することは出来ないので何とも言えませんが、創造論が全ての人に当てはまる実用的な真理をついていることは、間違いないと思います。後者のほうが、クリスチャンが創造論を信じる根拠としては大きいのではないでしょうか。どういうことか??後のブログシリーズを期待してください:)
さて、3章では最初の人であるアダム、その妻エバ(女)、そして蛇の3者が登場します。
蛇はただの蛇ではなく、人に嘘をついて、人を神様から離そうとする悪役。それが象徴として蛇と書かれています。(聖書全体を通して言えば、蛇はよくも悪くもなく中立)
蛇は最初に女に向かって、食べてはいけない木の実を食べるようにそそのかしました。
一つの質問をぶつけたのです。
蛇:「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか?」[1]
この質問、実は2つの点でネジれているので、エバを混乱させるのに非常に有効。
まずは、「神は本当に言われたのか?」という問いかけを通して、「あれ、本当にそう言ったっけな?」と思いめぐらせる働き。
そして、「園のどんな木からも食べてはならない」という間違った情報を通して、エバが「いいえ、違いますよ。」以上の答えが返ってくるようにしむけている。(会話を続けるテクニック)
蛇のヒネリの聞いた質問に対して、
エバ:「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなた方が死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」[2]
実は、エバは神様のこの言葉を直接は聞いていません。アダムからの又聞きでした。
実際に神様がアダムに向けて言った言葉は、
神様:「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」[3]
でした。よく読むとエバの返答には、「善悪の知識の木」という名称が抜けています。
それがなんだってのよ??
蛇にとっては、エバが善悪の知識の実について何も知らないというのは、騙すのに好都合だったのです。すかさず、質問から定義に変えて、こう言うのです。
蛇:「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べる時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
蛇はエバがいかにも、その木に手をつけるように、まんまとそそのかしました。
実に真実味あるように話しましたが、ほぼ嘘です。
この後、エバはおもむろに善悪の知識の木の実を見つめ、とって食べちゃいました。
この間ずっとアダムは黙っていました。むしろエバと一緒に食べちゃいました。
あちゃま〜…そしてどうなったか?
「ふたりの目は開かれ…」[4]
二人は自分たちが裸であることを知り、恥ずかしくなって、いちじくの葉で腰を覆いました。
そして神様から隠れたのです。
「恥ずかしくなって」、「隠れた」、う〜ん、これからとっても大事なキーワード 。
この次のブログで、この後、神様とアダムとエバの会話がどうなっていくのかを見ていきたいと思います。ここでのまとめは、
1.最初から、神様と人を離そうとする蛇のような悪者がいた、ということ。
2.悪者は非常に賢く、嘘つき。
3.人は自分で善悪を判断するようなった。(神様中心→自分中心、価値観の逆転)
「エデンの園」、俺となんの関係があんねん?!と思ってくれる人が、ここまで読んでくれたら、もう本望です:)でも次のブログも続けて読んでください!自由にコメント、感想、質問、嘆きなどなど書いてください。
長いのに読んでくださってありがとうございます。
うだい
どうしてキリストなの?パート2
シリーズ2回目です!
どうしてキリストなの?!
前回は、「救い」についてでした。(1はこちら)
バンドが音楽の「方向性」が違うと言って解散するように、
キリストだけは他のあらゆる宗教と真逆の「方向性」。
「救い」は神様の方から、起き上がれない僕らのために 一方的に“下りて”きて助け出してくれるということ。
今回は、何から救われるのか?その対象について話していきたいと思います。
それは「罪」です。(あっさり)
「罪」から救われる。
このブログを書く前にネット上で「罪」のことがわかりやすく書かれていないかなぁと、探したのですが、あまりありませんでした。聖書的には正しくても、理解するのが難しい!!もし、聖書の知識と背景がなかったら、心に響きにくい。
ここではアプローチを変えて、わかりやすいように2つの点から書きます。
罪とは、価値観を逆転させてしまうもの。
そして、関係性を破壊してしまうものです。
1.価値観の逆転
本来、人は神様と完全な関係を持っているはずでした。
自分をささげることを惜しまず、 愛し合い、自由と喜びに満ちた関係を持っていたはずでした。でも、罪が人に、そしてこの世界に入ってきたとき、(詳しくは、エデンの園、というタイトルで後ほど書きます)それまで神様中心だった価値観が、自分中心の価値観に逆転してしまったのです!!!
神様中心から自分中心?どういうことか?
価値観が神様中心から、自分中心になってしまったために、
神様の愛や周りの人の愛を、「自分の力」で勝ち取ろうとするようになったのです。
自分が何か愛されるにふさわしいことをした。だから愛されるにふさわしい、というように。
ですから、すべては自分の力、努力、成績、功績になる。
他の宗教がどうして、上にのぼるかのようにして救いを得るかは、これで納得がいきます。
神様の愛、賞賛なり悟りの境地などを、自分の力で勝ち取ろうとするからです。
罪は、私たちを神様中心から自分中心への価値観へと、逆転させてしまったのです。
じゃあ今この世は、価値観が逆転しているの??
そうなのです!
2.関係を破壊してしまうもの
罪は、一つ一つの行いを指す場合もありますが、さらに言えば暗くてドロっとした、自分たちの内に潜む根源的な問題です。価値観の逆転が起こったので、僕たちは互いに愛を勝ち取らなければいけない存在になってしまった。
何が起こるかというと、関係性の断絶です。
人と人の、そして人と神様の関係には信頼が不可欠。
しかしその信頼も、信頼するに足りる証拠がなければ、信頼できない。
だから、その証拠が足りない場合もしくは、失敗があったり、何か欠けている場合は、
信頼するに値しないのです。
企業が顧客を得るには、実績がなければいけません。
実績が信頼するにふさわしい証拠だからです。
良い子が両親の愛と賞賛を得るには、良い成績をとらなければいけない。
成績が愛を得るにふさわしい証拠だからです。
つまり、罪は全ての関係性を、「条件つきの関係」に閉じ込めてしまったことになる。
条件付き?
すなわち、人はありのままに愛され、愛することができなくなった、ということです。
これは、聖書の話をせずに紐とくこは難しい!
そうですね、聖書の話をしましょう。
次のブログでは、エデンの園、というタイトルで、一体何が起こったのかを見ていきたいと思います!ちょっと飛ばし過ぎ?!よかったらコメントじゃんじゃんください!質問、疑問、励まし、叱責ウェルカムです:)
ハレルヤ!!!
うだい
P.S. 僕の教会からチームHope Japnが仙台に4月8日から2週間働きにいきます。
詳しくは、http://hopejapan.posterous.com/ 、彼らは自費でいきます!ファンドレイズイベントが4月2日土曜日に行われ、すべての寄付金は被災された方のために使われます。どうぞお祈りください。
2歴代誌7章14節、「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔をしたい求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」
今、日本のクリスチャンが心を一つにして祈っています。僕らが主に悔い改めて立ち返る時に、必ず罪を赦して、大地を癒してくださる。主は動いています、リバイバルがきます、祈りましょう!!
どうしてキリストなの? パート1
誰でもクリスチャンを見て、聞きたくなる質問ってあると思う。
「どうしてキリストじゃないと救われないの!?」
これってもしかして一番多いのでは?
実際、本当にキリストじゃなければいけないのだろうか!?
ブッダは?ヒンズーは?イスラムは?バハイは?創価学会は!?
この問いかけに対して、なるべくわかりやすく展開していきたいから
3回にわけてブログします。
初めに、これはイエスキリストのことをもっと知りたい!という人が読んでくれるといいかも。
もし、まだ私よく宗教ってよくわからないのって人がいたら、是非読んでください:)
まず、この一回目は「救い」について。
「救われる」からには「何か」から救われる、対象があるはず。
この「何か」とぶつかって、苦しみ、もがいているのが僕たちヒトです。
それぞれの宗教はこの「何か」と「救い」を定義してそれぞれの宗教観なり、世界観をつくりあげています。
例えば、仏教はこの「何か」を「煩悩」って言ったりする。
そして「救い」を「悟り」とか「無の境地」というふうに定義する。
例えば、イスラムだったら、「何か」は「不信仰(罪)」、
「救い」を「 アラーにたいする自分たちの忠誠」と捉えている。
クリスチャンはこの「何か」を「罪」、「救い」を「キリストを信じる信仰」と捉えるのですね。
え?!イスラムに似てるじゃん、「アラー」か「キリスト」かの違いやろ?!
と思った皆さん、するどいw
ところが、実はだいぶん違うのです。
どこが違うのか。
それは「救い」の「方向性」。
方向性?
そう、よくバンドメンバーが、音楽の「方向性」が違うということで、解散します。
数ある宗教の中で、キリストを信じる信仰だけ、「方向性」が違うのです。
イエスキリストだけ他の宗教と「方向性」が違う。まさに、真逆なのです。
どういうことか?
僕らは頑張って、何かをして、「救われる」わけではないということなんです。
階段を一生懸命上っていって神様に出会う、のではないということ。
さらに言ってしまうと、僕らクリスチャンが頑張ってキリストを信じる、わけでもないのです。
じゃあどういうこと?
聖なる偉大な“神様の“方から”、僕らに向かって“下って”きたということです。
よく考えてみると、「救い」という言葉は、とても一方的で、向こう側の行為がほぼ100%。
「救われる」と言うと、ぐったりしている人が助けられるようです。
そうです、力なく、ぐったりと横たわっているイメージです。
本当に助けが必要な人は、横たわっていて動きません。いや、動けないのです。
その場所に駆けつけ、救助し、篤い手当をする人がいるからこそ、「救われる」と言うのではないでしょうか?
言うなれば、全ての宗教は横たわって動けずにいる人に向かって、「自分で立って歩いてきなさい、こっちにくれば救われるよ。」と言うようなものなのです。
でもイエスキリストだけは違う。人と人との関係を癒し、本物の愛を示すために、
彼のほうから僕ら一人一人に歩み寄ってくれる。
さて、今回のブログでは「救い」について少しだけ触れました。
「救い」は僕らのもとに来ること。
僕らが神に頑張って向かって行くのではなく、神様の方から僕らに来るということです。
これを福音、Gospel(良い知らせ)、と言います。
さて「救われる」からには、「何か」から救われる必要がありますよね。
次回のブログではこの「何か」について話していきたいと思います!
ハレルヤ!!
うだい

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